インディーズのアナログレコード

PANDA PANDA RECORDS(パンダパンダレコーズ)とは、かつて存在していたインディーズ系のアナログレコードの通販サイトです。インディーロック専門店。伝説的なショップだと評判でした。口コミランキングやレビューでも、音楽ファンや洋楽ファンから高い評価を得ていました。実店舗は大阪アメリカ村にありました。UKやUSAなどのインディーズの話題の新人、クラブヒッツ、名盤アルバム、新品LPレコード、12インチ、7インチシングルレコード、10インチレコードを輸入していました。(戸川利郎)

電気グルーヴ

1997年5月1日

1990年(平成2年)、インディーズ=自主制作盤で人気を集めたバンド「人生」の石野卓球(本名・石野文敏)とピエール瀧(瀧正則)らで結成。デビュー前に出したCDが1万枚のヒットとなる。

1991年(平成3年)4月、アルバム「FLASH PAPA」でメジャー(大手レコード会社)デビュー。1991年度ソニーレコードの新人売り上げNo.1を記録。1991年7月、砂原良徳が加入。1992年(平成4年)、初の日本武道館ライブ。1993年(平成5年)、テクノ(音楽のジャンル。シンセサイザーの音色とコンピューターなどによる自動演奏の組み合わせを軸にしている)色が濃い5枚目アルバム「VITAMIN」が20万枚のヒット。

1994年(平成6年)、ピエール瀧がフジ・関西系子供向け番組「ポンキッキーズ」にレギュラー出演を始める。1995年(平成7年)、メンバー3人のソロ作品をセットにした「PARKING」限定3万組が即日完売。1995年(平成8年)、ドイツで「虹」を発売。



ロンドン

1992年1月8日

ロンドンは、現在も欧州をリードする音楽都市だ。中でも1番の繁華街、ピカデリーサーカスの北側、ソーホーからレスタースクエアの一帯には、有名なミュージックショップやナイトクラブ(ディスコ)が集中している。

インディーズの専門店、ラフ・トレードも、その一角にある。地下鉄のレスタースクエア駅から東側に歩いて3分の場所にあるこの店は、1974年に開店し、1970年代後半のパンクブームに乗って人気ショップとなった。

「あらゆるインディーズのレーベルを扱っている」と店員のナイジェル・ハウスさんは自慢する。人気のアーチストは、プライマル・スクリーム、ラッシュ(いずれも英国)などのグループ。

レイズ・ジャズ・ショップもラフ・トレードから近い。ラグ・タイム(クラシックジャズ)から前衛的な作品まで幅広く扱っている。マネジャーのグライン・カリンガムさんによると、死去したばかりのマイルス・デイビスのLPが人気を呼んでいる。また、インディーズのレコードジャケットを1冊の本にした「カバー・アート」(16ポンド=約3600円)がマニアの間で評判になっているとか。

ピカデリーサーカスのタワー・レコードは地下にロック、ポップス、1階にビデオ、2階にジャズ、クラシックが配置され、新譜であればほとんど手に入らないものはない。

女性ポップスではカイリー・ミノーグ、ソニア、男性ではドノバンのほか、ロックのベテラングループ、クイーンのLPが依然として売れ行き好調だそうだ。



ブルースの歴史たどるCD「ザ・ブルース・ジェム」

1992年11月7日

世界を代表する大衆音楽であるロックやジャズなどの「母」といえる、ブルース。プレスリーやビートルズ、ローリング・ストーンズの源泉もそこにたどれるという。米国黒人から始まったこの音楽の歴史を、重要な4人に焦点をあててたどるCDシリーズ「ザ・ブルース・ジェム」(東芝EMI)が発売された。

モダンブルースの筆頭格ティーボーン・ウォーカー、ニューオーリンズ独特の音を追求したスマイリー・ルイス、ブギウギの第一人者エイモス・ミルバーン、そしてロックンロールの先駆けファッツ・ドミノを、それぞれ4枚ずつにまとめている。散逸していた多数の音源を集めて組み上げた意欲的な企画だ。

この辺りの音楽に詳しいピーター・バラカンさんによると、「第2次世界大戦直後のジャンプ・ブルースからロックンロールへのかけはしを果たしたミュージシャンばかり。1940年代のティーボーンのギターがいかに斬新(ざんしん)だったか、初めて聴く人は驚くはず。ドミノやルイスのバックで、ニューオーリンズのユニークなR&Bスタイルの基礎を作ったデイブ・バーソロミューのバンドの音を聴けるのもうれしい」。



少年ナイフ

1992年10月2日

全米の大学内で放送している大学ラジオのヒットチャートで1位となり、流行に敏感な英ロンドンのヒットチャートで3位に輝いたのが日本女性の3人組ロックグループ「少年ナイフ」。日本では無名だが、米国の人気バンド「ニルヴァーナ」に素人っぽい、音のふぞろいなところがユニークと見込みれ、1991年末英国11カ所ツアーに同行した。彼女たちのオリジナル曲をソニック・ユースなど30組の海外若手バンドが歌うなどロック界では世界的有名人なのである。

1981年に山野直子(ボーカル)、敦子(ドラム)姉妹と中谷美智枝(ベース)で結成。インディーズ(独立)バンドとして、共作も含め10枚ほどのアルバムがあるが、このほど日本の大手レコード会社MCAビクターと専属契約、アルバム「レッツ・ナイフ」が1992年10月26日に発売された。

数年前から、まず米国で注目され始めた。彼女たちのテープを米国に持ち込んだミュージシャンから口づてに知名度を高め、やがて彼女たちの曲を30以上のバンドが演奏した、いわゆる「カバー」アルバムまで現れた。余勢をかって1991年、米国の人気バンド「ニルバーナ」の英国ツアーにも同行した。

バンド結成のそもそものきっかけは「OL生活にも慣れてきたし、何か趣味でも始めようか」という軽いノリ。命名もリーダー、山野直子が英語検定を受けた際、前の席の人が持っていたカッターナイフに「少年ナイフ」と彫られているのを見て「これだ!」とひらめいたという。それまで楽器には触れたこともなかった彼女たちが、結成当時から作詞、作曲、演奏をすべて“自給自足”し、日本のインディーズ(独立系)レーベルからレコードを出し、関西のライブハウスを中心に活動を続けていた。

歌は日本語、英語の両パターンがあるが大半は日本語。「ブラックバスを釣りに行こう」「アイスクリームが食べたいな」など、愛とプロテストが当たり前のロック界では異色の歌詞だ。日本人は洋楽を聴くような感覚で聞けるだろうし、英米では軽いポップな曲調が受けているという。

彼女たちが音楽活動に専念し始めたのは1992年春になってから。それまで山野直子(ボーカル、ギター)は久保田鉄工のOL、中谷美智枝(ボーカル、ベース)はタイガー魔法瓶の営業と漫画家のアシスタントの掛け持ち、山野敦子(ドラムス)はデザイナー、とそれぞれ音楽とは全く関係のない仕事をしていた。